朝の六時十二分に、ミスドの前を通る。
通るというより、通るように歩いている。倉庫からバス停までは国道沿いを歩いて八分で、ミスドはその途中にある。まだシャッターが開く前で、店の裏の搬入口から揚げた油の匂いだけが漏れてくる。私はその匂いを、犬みたいに吸う。
夜勤は二十二時から翌六時。相模原の物流倉庫で、通販の箱に緩衝材を詰める仕事だ。時給は千三百五十円。深夜手当がつくから、昼に働くより月に四万くらい違う。それで四十一歳の私は、三年前から夜に働いている。
息子の翔は高校二年で、私が家を出るころに帰ってきて、私が帰るころに家を出る。すれ違いざまに「行ってくる」「おかえり」と言い合う。逆だなあ、といつも思う。私が「おかえり」で、あの子が「行ってくる」。
ドーナツは、七時にならないと買えない。
だから私は、いつもは買わない。バス停で十五分待って、六時四十分のバスに乗って、家に着くのが七時十分。風呂に入って、翔の弁当を詰めて、九時に寝る。ドーナツの入る隙間はない。
その日は、翔が起きていた。
珍しいことだった。台所の電気がついていて、翔が制服のままテーブルに肘をついて、スマホを見ていた。
「早いね」
「うん」
私はコートを脱いで、洗面所で手を洗った。倉庫の匂いは、手に一番残る。段ボールと、ビニールと、あとなんだかわからない金属っぽい匂い。
「あのさ」
翔が台所から言った。
「大学、行かないかも」
私は蛇口を止めた。
「なんで」
「なんでっていうか。行きたいとこ、ないし」
「……」
「金もかかるし」
最後のは、小さい声だった。聞こえなかったふりをするには、小さすぎた。
私は手を拭いて、台所に戻った。翔はスマホを伏せていた。
「金のことは、あんたが考えることじゃない」
「でも夜勤してんじゃん」
「それは私が決めたことだから」
「だから、それが」
翔はそこで黙った。私も黙った。冷蔵庫がぶうんと鳴った。
高校に入ったときから、翔は私に何も頼まなくなった。修学旅行の小遣いも、部活の遠征費も、自分でバイトして出した。偉いね、と私は言った。本当は、偉いね、じゃなかった。頼ってほしかった。でもそう言うと、たぶん翔は困る。
「行ってくる」
翔が鞄を持った。
「弁当」
「今日いい。学食で食う」
玄関のドアが閉まって、私は台所に一人で立っていた。詰めるはずだった弁当の材料が、まな板の上にあった。卵と、昨日の残りの唐揚げと、ほうれん草。
私は、コートをもう一回着た。
七時五分。ミスドのシャッターは、もう開いていた。
店に入ったのは、たぶん十年ぶりくらいだった。翔が小学生のころ、誕生日のたびに来ていた。あの子はいつもフレンチクルーラーを選んで、砂糖を口のまわりにつけて食べた。
私はトレイにフレンチクルーラーを二つ乗せた。それからしばらく考えて、ポン・デ・リングを一つ足した。三百六十円。
家に帰って、テーブルの真ん中に箱を置いた。
風呂に入って、寝た。
翔が帰ってくるのは十七時で、私はもう出かける準備をしている。すれ違いざまに、あの子は箱を見るだろう。それで何を思うかは、知らない。食べるかもしれないし、食べないかもしれない。
夕方、私は目を覚まして、台所に行った。
箱は、開いていた。
フレンチクルーラーが一つと、ポン・デ・リングが一つ、なくなっていた。
残っている一つの横に、付箋が貼ってあった。翔の字で、「ポンデリングのほうがうまい」と書いてあった。
私は付箋を剥がして、財布に入れた。
それから、残ったフレンチクルーラーを立ったまま食べて、二十二時の夜勤に出た。