小学四年のとき、同じ班に仲村さんという子がいた。
仲村さんは、給食の牛乳を飲まなかった。
飲まないで、ランドセルの横のポケットに入れて持って帰る。紙パックだから、つぶれないように、体操着の袋で挟むようにして。
最初に気づいたのは私で、私はそれを、隣の席の男子に言った。「仲村さん、牛乳持って帰ってる」と。
男子は「へえ」と言って、それで終わりだった。私はもっと何かが起きると思っていたので、少し拍子抜けした。
担任は木下先生という、四十くらいの女の先生だった。
木下先生は、仲村さんが牛乳をポケットに入れるのを、見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
給食の時間、先生はいつも教室を一周する。仲村さんの席の前を通るとき、先生は少しだけ歩くのを遅くして、それから何も言わずに次の班に行った。
あれは、見なかったことにしていたのではなくて、見ていた、のだと思う。今ならわかる。当時はわからなかった。
一度だけ、仲村さんの家に行ったことがある。
班の課題で、模造紙に町の地図を描く宿題があって、誰かの家に集まることになった。仲村さんが「うちでいいよ」と言った。
団地の四階だった。エレベーターはなかった。
部屋には、テレビと、こたつと、小さい冷蔵庫があった。冷蔵庫の上に、給食の牛乳が三本並んでいた。
仲村さんのお母さんは仕事で、いなかった。代わりに、小さい弟が二人いて、私たちが模造紙を広げると、その端に座って、ずっと見ていた。
仲村さんは、模造紙の隅に、団地の絵を描いた。四角い建物に、窓を全部描いて、四階の一つだけ、窓を黄色く塗った。
「これ、うち」
と言った。
帰るとき、仲村さんは冷蔵庫から牛乳を一本出して、弟に渡した。弟は、紙パックの角を噛んで開けようとして、仲村さんに「ちがう」と怒られていた。
私はそのことを、家に帰って、母に言わなかった。
言わなかった理由は、うまく説明できない。言ってはいけない気がした、というのが一番近い。仲村さんが牛乳を持って帰ることは、仲村さんのものだった。私が持ち出していいものではなかった。
仲村さんは五年生になる前に転校した。
どこへ行ったのかは、知らない。
三十年たって、私は自分の子どもの給食費を、口座振替で払っている。
月に四千五百円。引き落とされたことに、たぶん気づいていない月もある。
給食の牛乳は今も紙パックで、うちの子はたまに「牛乳、余ってたからもらってきた」と言って、ランドセルから出す。
私はそれを冷蔵庫に入れながら、四階の、黄色く塗られた窓のことを思い出す。
思い出して、それだけだ。何かをしたわけではない。
ただ、あの牛乳三本の並んだ冷蔵庫の上を、私はたぶん一生忘れない。