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第1話 / 全1話

三百二十円

人生図書館 · 1,023字 · 約2分

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 万引きを捕まえたのは、十八年働いて、その日が最初だった。

 と言うと驚かれるが、うちのような小さな薬局では、たいてい見て見ぬふりをする。捕まえると、その日の午後が全部つぶれる。警察を呼んで、調書を取って、親を呼んで、頭を下げられて。三百円の商品のために。

 でもその日は、捕まえた。

 女の子だった。中学生くらい。制服じゃなくて、パーカーにジャージだった。リップクリームを一本、ポケットに入れた。三百二十円。

 声をかけたのは、私が疲れていたからだ。それが正直なところだ。前の日に義理の母の通夜があって、寝ていなかった。何か、誰かに対して、はっきりしたことをしたかった。それが、たまたま、その子だった。

 事務所で、女の子は泣かなかった。

「親、呼ぶよ」

「いません」

「いないってことないでしょ」

「いま、いません。仕事で」

「連絡先は」

 女の子は、番号を言った。私がかけると、留守番電話だった。

 二時間、私と女の子は事務所にいた。私はレジに出たり戻ったりした。女の子はパイプ椅子に座って、床を見ていた。

「なんで盗ったの」

 私は聞いた。聞いても意味がないことは知っていた。

「……欲しかったから」

「三百二十円だよ」

「なかったから」

「三百二十円が?」

「はい」

 私は、それ以上聞けなかった。

 母親は、十九時過ぎに来た。作業着のまま、走ってきたみたいに息を切らして。

 頭を下げられた。何度も。私は「もういいです」と言った。警察は呼ばなかった。呼ぶ気力が、もうなかった。

 母親は、財布から小銭を出して、三百二十円をカウンターに置いた。

 私は受け取った。

 受け取るべきじゃなかったのかもしれない。でも、受け取らないと、あの人はたぶんもっと困った。

 それから、十年くらい経つ。

 薬局はまだやっている。私は五十を越えた。

 去年の冬、若い女の人が店に来て、リップクリームを買った。三百二十円じゃなくて、四百五十円になっていた。物の値段は上がる。

 女の人はレジで、私の顔を見た。

 私は、わからなかった。

 でも、その人は、お釣りを受け取るときに、小さく「どうも」と言って、それから、少し間があって、「……あの時は」と言いかけて、やめた。

 私は「ありがとうございました」と言った。いつもの通りに。

 その人が出て行ってから、私はしばらくレジに立っていた。

 あの時の子だったのか、違ったのか。私にはわからない。わからないままでいいと思う。

 ただ、あの日の三百二十円を、私は受け取った。それは覚えている。それだけは、たぶん、ずっと覚えている。

この作品はここで完結です。

読んでくださって、ありがとうございます。よかったら作者に一言を。

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