人生図書館ログイン

第1話 / 全1話

金曜日のスーパー

人生図書館 · 952字 · 約2分

文字
配色

 うちのスーパーは、金曜日の夜に卵が安い。

 十個入りが百二十八円。妻はそれを知っていて、私は知らなかった。結婚して六年、買い物はだいたい妻がしていた。

 私が行くようになったのは、去年の秋からだ。妻が病院に通い始めて、金曜日が注射の日になった。注射の日は、妻は帰ってきてすぐ横になる。だから私が、会社の帰りにスーパーに寄る。

 最初のころは、卵を買い忘れた。妻は何も言わなかった。二回目も忘れた。三回目に、妻が言った。

「金曜、卵安いよ」

「え」

「百二十八円」

「そうなの」

「六年間言わなかったけど」

 妻は笑っていた。少し疲れた顔で。

 不妊治療というものは、テレビで見ていたのと違って、ずいぶん地味だった。

 妻は毎朝体温を測る。私は毎晩、検査結果の紙を見る。何も書いていない紙もある。数字だけの紙もある。医者は「今回は」と言い、妻は「そう」と言い、私は「うん」と言う。それを一か月に一回、繰り返す。

 治療の費用は、卵が何百個買えるかわからないくらいだった。私はそれを計算しようとして、やめた。計算しても、何も変わらない。

 変わったのは、私が卵の値段を知ったこと。

 それと、レジの人の顔を覚えたこと。金曜の夜は、いつも同じ人だった。六十代くらいの女の人で、レジ袋を「いりますか」と聞く声が低い。私はいつも「いりません」と答えて、リュックに卵を入れる。割らないように、一番上に。

 春に、妻が言った。

「一回、やめようか」

 私は卵を冷蔵庫に入れているところだった。

「……うん」

「お金のことじゃなくて」

「わかってる」

「お金のことも、ちょっとあるけど」

「うん」

 妻は台所のテーブルで、麦茶を飲んでいた。私は冷蔵庫を閉めて、その向かいに座った。

 何か言うべきだった。でも、六年も一緒にいて、私は妻に言うべきことを、いつも見つけられない。見つけられないまま、六年たった。

「卵、買ってきた」

 と、私は言った。

 妻は麦茶を飲んで、

「知ってる。見てた」

 と言った。

「金曜だから」

「うん」

「百二十八円」

「うん」

 それで、その夜は終わった。

 翌週の金曜も、私はスーパーに行った。注射の日ではなくなっていたけれど、行った。レジの人が「いりますか」と言い、私が「いりません」と言った。

 家に帰ると、妻が起きていて、卵焼きを作っていた。

 二人分だった。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

この作品はここで完結です。

読んでくださって、ありがとうございます。よかったら作者に一言を。

感想を書く →

人生図書館 さんの別の作品