会社を辞めて、三週間目だった。
バンコクの安宿は一泊千二百円で、エアコンはあるが、窓が開かない。洗濯物は部屋に干しても乾かない。三日干したTシャツが、まだ湿っている。
宿の人に聞くと、二本向こうの通りにコインランドリーがあると言った。
コインランドリーは、シャッターの半分開いた店の奥にあった。洗濯機が四台、乾燥機が二台。二十バーツで洗って、二十バーツで乾かす。
私が硬貨を入れていると、奥の椅子に座っていた男の人が、言った。
「何日目?」
日本語だった。
七十くらいだと思う。白いランニングシャツに短パン、サンダル。日焼けで、腕が黒い。
「……三週間です」
「旅行?」
「いえ。辞めて、来ました。会社」
「ふうん」
男の人はそれ以上聞かなかった。私も聞かなかった。乾燥機が回っている音だけが、店の中にあった。
洗濯が終わるまで三十分。乾燥にまた三十分。
その間、私たちは並んで座っていた。
男の人は、途中で一度だけ、自分のことを言った。
「二十年いる」
「ここに?」
「ここに。会社の駐在で来て、そのまま」
「帰らなかったんですか」
「帰る理由が、なくなった」
それがどういう意味なのか、私は聞かなかった。家族のことか、仕事のことか、あるいは両方か。
男の人は乾燥機から自分の洗濯物を出して、たたみ始めた。Tシャツが五枚、短パンが三枚、下着。全部、同じような色だった。たたむのがうまかった。角がぴったり揃う。
「洗濯だけは、きちんとしとかないと」
と男の人は言った。
「崩れるから」
「何がですか」
「いろいろ」
私の乾燥が終わって、洗濯物を出したら、まだ少し湿っていた。
「もう二十バーツ」
男の人はそう言って、自分のポケットから硬貨を出して、乾燥機に入れた。
「いいです、自分で」
「いい。二十バーツ」
私は、ありがとうございます、と言った。男の人は返事をしなかった。
乾いた洗濯物を袋に入れて、店を出るとき、男の人がまだ椅子に座っていた。
「また来る?」
「たぶん」
「じゃあ」
それだけだった。
私はその後、バンコクにもう二週間いて、日本に帰った。コインランドリーには、あと三回行った。男の人がいたのは、一回だけだった。何も話さなかった。
帰国して、私は別の会社に入った。
洗濯物は、今もきちんとたたむ。角を揃えて。
崩れるから、と思いながら。何が、とは考えないようにして。