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第1話 / 全1話

バンコクのコインランドリー

人生図書館 · 950字 · 約2分

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 会社を辞めて、三週間目だった。

 バンコクの安宿は一泊千二百円で、エアコンはあるが、窓が開かない。洗濯物は部屋に干しても乾かない。三日干したTシャツが、まだ湿っている。

 宿の人に聞くと、二本向こうの通りにコインランドリーがあると言った。

 コインランドリーは、シャッターの半分開いた店の奥にあった。洗濯機が四台、乾燥機が二台。二十バーツで洗って、二十バーツで乾かす。

 私が硬貨を入れていると、奥の椅子に座っていた男の人が、言った。

「何日目?」

 日本語だった。

 七十くらいだと思う。白いランニングシャツに短パン、サンダル。日焼けで、腕が黒い。

「……三週間です」

「旅行?」

「いえ。辞めて、来ました。会社」

「ふうん」

 男の人はそれ以上聞かなかった。私も聞かなかった。乾燥機が回っている音だけが、店の中にあった。

 洗濯が終わるまで三十分。乾燥にまた三十分。

 その間、私たちは並んで座っていた。

 男の人は、途中で一度だけ、自分のことを言った。

「二十年いる」

「ここに?」

「ここに。会社の駐在で来て、そのまま」

「帰らなかったんですか」

「帰る理由が、なくなった」

 それがどういう意味なのか、私は聞かなかった。家族のことか、仕事のことか、あるいは両方か。

 男の人は乾燥機から自分の洗濯物を出して、たたみ始めた。Tシャツが五枚、短パンが三枚、下着。全部、同じような色だった。たたむのがうまかった。角がぴったり揃う。

「洗濯だけは、きちんとしとかないと」

 と男の人は言った。

「崩れるから」

「何がですか」

「いろいろ」

 私の乾燥が終わって、洗濯物を出したら、まだ少し湿っていた。

「もう二十バーツ」

 男の人はそう言って、自分のポケットから硬貨を出して、乾燥機に入れた。

「いいです、自分で」

「いい。二十バーツ」

 私は、ありがとうございます、と言った。男の人は返事をしなかった。

 乾いた洗濯物を袋に入れて、店を出るとき、男の人がまだ椅子に座っていた。

「また来る?」

「たぶん」

「じゃあ」

 それだけだった。

 私はその後、バンコクにもう二週間いて、日本に帰った。コインランドリーには、あと三回行った。男の人がいたのは、一回だけだった。何も話さなかった。

 帰国して、私は別の会社に入った。

 洗濯物は、今もきちんとたたむ。角を揃えて。

 崩れるから、と思いながら。何が、とは考えないようにして。

この作品はここで完結です。

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