離婚届を出した日、私は不動産屋に行って、一番安い部屋を借りた。
六畳のワンルーム。窓を開けると、向かいのアパートの壁が見える。
荷物は段ボール四箱で済んだ。二十年の結婚で、私のものと呼べるものは、それだけだった。
最初のひと月は、何もしなかった。
仕事には行った。帰ってきて、コンビニの弁当を食べて、寝た。テレビはなかった。買う気にもならなかった。
夜、電気を消して横になると、窓の外に灯りが見えた。
向かいのアパートの、二階の角の部屋。
毎晩、十時ちょうどにつく。そして、深夜一時ごろに消える。
カーテンは閉まっていて、中は見えない。ただ、灯りがつく。それだけだ。
私はいつの間にか、その灯りを待つようになっていた。
十時。今日もついた。よかった。
なにが「よかった」のか、自分でも分からなかった。
二か月目に、私は小さな鉢植えを買った。
ベランダに置いた。ミニトマトの苗で、育て方も知らなかった。ただ、朝に水をやるという用事がほしかった。
三か月目に、鉢は三つになった。
四か月目、初めて実がなった。小さくて、酸っぱかった。私はベランダで、その一粒を食べて、少し笑った。ひとりで笑ったのは、離婚してから初めてだった。
半年が過ぎたころ、向かいの灯りが、三日続けてつかなかった。
私は、驚くほど動揺した。
どうしたのだろう。引っ越したのか。それとも――。
四日目の夜、灯りがついた。
私は窓辺に立って、その灯りを見ていた。
そして、初めて気づいた。
向こうからも、私の部屋の灯りが見えているはずだ、ということに。
私は次の日、ベランダに、小さなランプを置いた。
電池式の、安いランプだ。
夜十時、向かいの灯りがついた。
私は、ランプをつけた。
それだけのことだ。相手が誰なのか、知らない。知ろうとも思わない。
ただ、あの部屋に誰かがいて、この部屋に私がいて、それぞれの夜を生きている。
それが分かるだけで、夜は少し、短くなった。