免許センターの駐車場で、父が言った。
「そこまで、俺が運転する」
「返したばっかりでしょ」
「まだ今日は有効だ」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だ」
父は助手席のドアを開けなかった。運転席の前に立って、私を見ていた。この人は、こういう顔をするとき、絶対に引かない。母の葬式で、坊さんに戒名の値段を値切ったときと同じ顔だった。
私はキーを渡した。
法的にどうなのかは、正直、いまでもわからない。返納の手続きをした日の午後に運転していいのか。たぶんよくない。でも私は、渡した。
父の運転は、ゆっくりだった。
制限速度四十のところを、三十で走った。後ろに軽が一台ついて、追い越していった。父は気にしなかった。
交差点で、父はきちんと止まって、右、左、右、と首を振った。私が教習所で習ったのと同じ順番で。父もどこかで習ったのだろう。五十年前に。
「ここ、昔、火事あった」
父が言った。
「うん」
「お前が小学校のとき」
「覚えてる」
「消防車が来る前に、川の水を運んだ。バケツで」
私は覚えていなかった。父がバケツで水を運んだことも、火事のことも。覚えていたのは、消防車の音だけだった。
国道から農道に入ると、父はさらに遅くなった。二十キロも出ていなかったと思う。田んぼは稲刈りが終わっていて、切り株だけが並んでいた。
「あの用水路」
父が顎で示した。
「落ちたやつ」
「うん」
「浅いんだ、あれ」
「うん」
「浅いのに、上がれなかった」
それ以上、父は言わなかった。
家の前で、父はエンジンを切った。キーを抜いて、しばらく手のひらに乗せていた。それから、私に渡した。
「はい」
「うん」
「これで終わり」
「うん」
父は車を降りて、玄関に入っていった。私は運転席に移って、車を車庫に入れた。
翌朝、私は父を乗せてスーパーに行った。父は助手席で、ずっと外を見ていた。
「遅い」
「四十だよ」
「遅い」
私は少しだけアクセルを踏んだ。
帰りの新幹線は、四日目だった。妻の言った通りだった。