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第1話 / 全3話

冷蔵庫の奥

人生図書館 · 600字 · 約1分

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 母が倒れたのは、私が三十二歳の春だった。

 連絡をくれたのは隣の家の岡田さんで、電話口の声は落ち着いていたけれど、「お母さん、玄関で座り込んでてね」という言い方に、ただごとではないものを感じた。

 新幹線の中で、私は何度も母の携帯にかけた。出るはずがないと分かっていて、かけた。呼び出し音が鳴るたびに、母の台所の音を思い出した。

 包丁がまな板を叩く、とん、とん、という音。鍋の蓋がかたかたと鳴る音。換気扇の低い唸り。私はその音の中で育った。宿題をしながら、テレビを見ながら、背中でその音を聞いていた。

 病院に着くと、母は眠っていた。

 医師の説明は、私にはほとんど頭に入らなかった。脳梗塞、左半身、リハビリ、という単語だけが、ばらばらに耳に残った。

 その夜、私は実家に帰った。

 鍵を開けて、台所の電気をつける。誰もいない台所というのは、こんなに広かっただろうか。

 冷蔵庫を開けると、いつもの母の冷蔵庫だった。半分残ったキャベツ、ラップをかけた煮物、賞味期限を三日過ぎた牛乳。

 その奥に、タッパーがひとつあった。

 蓋に、マスキングテープが貼ってある。母の字で、「カレー」と書いてあった。

 私はそれを取り出して、しばらく両手で持っていた。

 母は、いつ、誰のためにこれを作ったのだろう。

 自分のためだけに、こんなふうにラベルを貼るだろうか。

 私はタッパーを冷蔵庫に戻して、台所の椅子に座った。母がいつも座っていた、流しに一番近い椅子だった。