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第3話 / 全3話

鍋で温める

人生図書館 · 513字 · 約1分

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 その夜、私は台所でカレーを温めた。

 母の言うとおり、鍋に移して、弱火で。木べらで底をこすると、じゃがいもが崩れて、とろみが増した。

 湯気の匂いを嗅いだとき、私は思わず声が出た。

 これは、私が子どものころに食べていたカレーだった。市販のルーを二種類混ぜて、隠し味に林檎(りんご)をすりおろす。甘くて、少しだけ辛い。中学生のとき、友だちの家のカレーがもっと大人っぽい味で、私は自分の家のカレーを「子どもっぽい」と言って、母を怒らせたことがある。

 あれから母は、カレーの作り方を変えなかった。

 私はひとりで、二人分のカレーを食べた。

 食べながら、泣いた。悲しいからではなかった。ただ、母が私のために作って、私が来なくて、それでも捨てずに冷凍しておいた、その時間の長さを思ったら、涙が出た。

 母は、五月の終わりに退院した。

 左手はまだ思うように動かない。それでも台所に立つと言って聞かないので、私は椅子を流しの前に置いた。

 母が座って玉ねぎを切り、私が立って炒める。

「もっと弱火」

「はいはい」

「林檎、忘れないでよ」

「分かってる」

 とん、とん、という音が、台所に戻ってきた。

 前と同じ音ではない。少し遅くて、少し弱い。

 でもそれは確かに、母の台所の音だった。

この作品はここで完結です。

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