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第3話 / 全3話

妻の来店

人生図書館 · 773字 · 約1分

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 パン屋で働き始めて、一か月がたった。

 四時起きにも、慣れた。慣れるものだと思わなかったが、慣れた。三時に目が覚めて、目覚ましが鳴る前に止める。妻はまだ寝ている。寝たふりをしているのかもしれない。

 真田さんは、私に生地を任せるようになった。

「あんた、手が冷たいから、いい」

 と言われた。パン生地は手が温かいと、だれるらしい。私の手は昔から冷たくて、妻に「死んだ人の手みたい」と言われたことがある。それが、ここでは長所だった。

 カレーパンは、まだ任せてもらえない。揚げるのは真田さんの奥さんの仕事で、油の温度は奥さんにしかわからない、ということになっている。

 土曜日、妻が店に来た。

 開店してすぐの七時十分で、私は奥で食パンを切っていた。

 妻は、店に入ってきて、私を見なかった。

 棚を見て、トングでカレーパンを一つ取って、クリームパンを一つ取って、レジに持っていった。

 レジは真田さんの奥さんだった。奥さんは妻を知らない。「三百六十円です」と言った。妻は払って、袋に入れてもらって、店を出た。

 私に、一言も声をかけなかった。

 私も、声をかけなかった。

 妻が出ていったあと、奥さんが「感じのいい人だったねえ」と言った。私は「そうですね」と言った。

 その日の夜、家に帰ると、テーブルにカレーパンの袋があった。

 空だった。

 妻は、テレビを見ていた。

「食べた?」

「食べた」

「どうだった」

「普通」

「……そう」

「普通に、おいしかった」

 妻はテレビから目を離さずに言った。

 私は台所で手を洗った。冷たい手だ。

「来週も行く」

 と妻が言った。

「うん」

「土曜日」

「うん」

「あんたが作ったやつ、教えて。どれか」

 私はまだ、カレーパンを作らせてもらえていない。食パンなら、私が切った。

「食パン」

 と私は言った。

「切ったの、俺」

 妻は少し笑った。

「切っただけかい」

「切っただけ」

 翌週の土曜日、妻は食パンを買って帰った。

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