パン屋で働き始めて、一か月がたった。
四時起きにも、慣れた。慣れるものだと思わなかったが、慣れた。三時に目が覚めて、目覚ましが鳴る前に止める。妻はまだ寝ている。寝たふりをしているのかもしれない。
真田さんは、私に生地を任せるようになった。
「あんた、手が冷たいから、いい」
と言われた。パン生地は手が温かいと、だれるらしい。私の手は昔から冷たくて、妻に「死んだ人の手みたい」と言われたことがある。それが、ここでは長所だった。
カレーパンは、まだ任せてもらえない。揚げるのは真田さんの奥さんの仕事で、油の温度は奥さんにしかわからない、ということになっている。
土曜日、妻が店に来た。
開店してすぐの七時十分で、私は奥で食パンを切っていた。
妻は、店に入ってきて、私を見なかった。
棚を見て、トングでカレーパンを一つ取って、クリームパンを一つ取って、レジに持っていった。
レジは真田さんの奥さんだった。奥さんは妻を知らない。「三百六十円です」と言った。妻は払って、袋に入れてもらって、店を出た。
私に、一言も声をかけなかった。
私も、声をかけなかった。
妻が出ていったあと、奥さんが「感じのいい人だったねえ」と言った。私は「そうですね」と言った。
その日の夜、家に帰ると、テーブルにカレーパンの袋があった。
空だった。
妻は、テレビを見ていた。
「食べた?」
「食べた」
「どうだった」
「普通」
「……そう」
「普通に、おいしかった」
妻はテレビから目を離さずに言った。
私は台所で手を洗った。冷たい手だ。
「来週も行く」
と妻が言った。
「うん」
「土曜日」
「うん」
「あんたが作ったやつ、教えて。どれか」
私はまだ、カレーパンを作らせてもらえていない。食パンなら、私が切った。
「食パン」
と私は言った。
「切ったの、俺」
妻は少し笑った。
「切っただけかい」
「切っただけ」
翌週の土曜日、妻は食パンを買って帰った。