四時にパン屋に行くには、三時に起きなければならない。
妻には、「新しい部署で早番になった」と言った。嘘は、もう一つ増えた。
店主の名前は、真田さんといった。奥さんと二人で三十年、この店をやっているという。
「まず、粉を計るところから」
パン屋の朝は、静かだった。
オーブンの音と、生地を叩く音しかしない。真田さんはほとんど喋らなかった。僕はその横で、言われたとおりに粉を計り、水を量り、生地を分けた。
七時に店が開くころ、僕は汗だくだった。
「センスは無いけど、手は丁寧」
真田さんはそう言って、焼きたてのカレーパンを一個くれた。
僕はそれを、公園のベンチで食べた。
自分が計った粉で作ったパンだった。
うまかった。三か月で初めて、うまいと思って食べた。
二週間経ったころ、妻が言った。
「最近、朝、小麦の匂いがする」
僕は、箸を止めた。
「スーツからも」
妻は僕を見ていた。責める目ではなかった。ただ、待っている目だった。
僕は、話した。
火曜日のことも、公園のことも、履歴書の二行のことも、四時のパン屋のことも、全部。
妻はしばらく黙っていて、それから言った。
「カレーパン、買ってきてよ」
「え」
「食べてみたい。あなたが作ったやつ」
僕は、泣かなかった。泣きそうだったけど、泣かなかった。
「……明日、持って帰る」
「うん」
次の朝、三時に起きたとき、部屋の電気がついていた。
妻が、台所で弁当を作っていた。